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現実を直視する勇気と希望を伝える暖かさを両方捉えていきたい

東南アジア、中東、アフリカを中心にフォトジャーナリストとして活躍する安田菜津紀さん。高校在学中にNGOのプログラムに参加しカンボジアで貧困にあえぐ子供を取材したことをきっかけに、現在は東日本大震災後以降は陸前高田市を中心に災害・被災地の記録も続け、世界の厳しい現実と人の温かさの両方を伝えています。

Q安田さんのフォトジャーナリストとしての原点について教えてください。


高校生の時に渡航したカンボジアが原点になっています。ただ、もともと国際協力に強く興味があったり、自分以外の人を助けたいという熱い想いがあったわけではないのです。私は学生の時に父と兄を亡くしました。「家族ってなんだろう」「人と人の繋がりってなんだろう」ともやもやしているなか、学校の担任の先生にNGO『国境なき子どもたち』が主催している「<ahref="http://www.knk.or.jp/kids/repo.html" target="_blank">友情のレポーター」というプロジェクトを教えてもらったのです。

11~16歳の子供の中から2人を選抜してアジアに派遣するというこのプロジェクト。
自分とはまったく違う環境で生きている――例えば路上生活をしていたり、親はいても貧しくて別々に暮らさなくてはいけない、学校に行けない、そういった子供たちは、どんな価値観や家族観を持っているのだろう。違う環境の中で暮らしている人の話を聞いたら、もやもやした気持ちを抱えた自分に答えをくれるんじゃないかという、今思えばとても自分本位な気持ちで参加を決めました。

 

Qカンボジアではどんな体験をされたのですか?


実際に同じぐらいの世代の子たちが人身売買される、働かされる、虐待されるという現実をまのあたりにして、それが他人事ではなくなりました。カンボジアの子供と友達になって言葉を交わすなかで、単なるニュースの中の出来事ではなくて「目の前にいる私の友達の問題」になったんです。

友達が抱える問題に対して何かしたいと思いましたが、高校生だった私に術はありませんでした。例えば空腹の子供たちみんなをお腹いっぱいにするにはお金が必要ですし、地雷で手足を失った子供たちが目の前に居たとしても治療してあげることもできない。
じゃあ自分にはなにができるのかと考えた時に、自分の五感を使って感じたことを1人でも多くの人とシェアすることだと思ったんです。シェアをすると言ってもすごくたくさんの方法がありますが、私は写真や文章を選んだわけです。

 

Q写真ともその体験の中で出会ったんですか?


そのときは、取材をするといっても手に取ったのはビデオカメラやマイクだったので、ジャーナリストとしての先駆けの体験ではありますが、写真との出会いはもう少し後ですね。

カンボジアから帰った次の年、高校3年生の時のことです。世界の紛争地をテーマにした写真展があって、いろんな写真家がそれぞれのテーマで写真を展示されていたんですが、一枚の写真の前でスッと足が止まりました。

当時内戦中だったアンゴラで撮られた写真。難民キャンプでガリガリにやせ細ったお母さんのおっぱいに、赤ちゃんが一生懸命吸い付いていました。状況としてはすごく絶望的なのに、お母さんの目がすごく強かったんです。それが過酷な環境を生き抜いてきたカンボジアの子供たちにすごく似ている気がして印象に残ったのだと思います。

一目見てから数年間、時々思い出しては胸が締め付けられるような感情を私に抱かせていました。たった一枚の、たった一瞬を切り取った写真が持つ力を証明してくれていました。

 

Q写真を撮ることを始めた直接的なきっかけはなんですか?


大学に入ってからの話です。カンボジアに連れて行ってくれた『国境なき子供たち』で活動されている写真家の渋谷敦志さんに会う機会がありました。報道写真家は「ごつい」というイメージを持っていたのですが、渋谷さんは小さくて細くて眼鏡で、大学の研究者みたいな方でした。

お会いした後、なんとなく気になって、彼のウェブサイトを見ていたら、なんと……写真展で見たアンゴラの母子の写真があったんです!
この出来事に運命を感じて、私も自分の感じたこと、思ったことを写真に込めてみよう、カメラを手にとってみようと思いました。

 

Q運命といいますか、ひとつひとつの縁が今の安田さんに向かって結んでくれたんですね。


本当にそう思います。初めてのカメラはmixiに「写真を始めてみたい」と書き込んだのを見た元写真部の後輩が使わなくなったカメラをゆずってくれて私の手元にやってきました。

学生時代にあるテレビ番組に出演させていただいた時も、高校時代に岩波書店の雑誌『世界』にエッセイを書いたことがきっかけでした。それを覚えていた方が番組の関係者にいらっしゃって、「今彼女は何をやっているのだろう」と私の名前を検索してくださったそうで、ちょうどそのとき小さなギャラリーで写真展をやっていたので、そこに足を運んでいただきお話をいただいたのです。
たくさんの縁に恵まれているのだと思います。

 

Q今まで撮られた写真で一番印象に残っている写真について教えてください。


どれか一枚というのは難しいですが、一番葛藤があったのは東日本大震災後の撮影でした。夫である佐藤慧の両親が被災していたこともあり、震災直後から陸前高田市に行きました。もちろんカメラを持って行ったのですが、現場に入って、ご遺族の気持ちを考えると、カメラを向けることができませんでした。

でも、陸前高田市の奇跡の一本松を見た時、思わずシャッターを切ってしまいました。私にとってはなにか力を与えてくれる希望の象徴のように思えたのです。

しばらく経って、4月に気仙小学校の入学式を撮影した時のことも印象に深く残っています。
たった2人の新入生を迎える式でした。街も、学校も、家も、家族のアルバムさえも津波に流された親御さんや子供たちに、最初の思い出を作るお手伝いする責任感と愛おしさは一生忘れられないと思います。

 

Qカンボジアでの取材で印象に残っている写真はありますか?


写真ではなく、シャッターを切れなかった時のことが印象に残っています。
カンボジアのある村を取材していた時のことです。村の子供のお父さんが病院に運ばれました。エイズの末期でした。お子さんと病室でしゃべっている時はまだシャッターは切れたのですが、危篤状態になられてからはシャッターを切る事ができませんでした。

フォトジャーナリストとしてこの瞬間も伝えるべきじゃないのかと、すごく葛藤がありました。でも切れなかった。写真って目の前の人を救うことは出来ないんですよね。病気を治すことも、お腹をいっぱいにさせてあげることもできません。無力さを強く感じました。

でも、現地のNGOの人に声をかけられて、「これって役割分担なんですよ」と言われたんです。自分たちは彼らに寄り添うことはできるけれど、世界にそれを発信することはできないと。葛藤は未だにありますが、今は役割がある限りそれを全うしたいと思っています。

 

Qこれからフォトジャーナリストとして、どんな自分でいたいか教えてください。


写真は希望を伝え続けていく道具であると思っています。私はよく『北風と太陽』の話にたとえますけど、コートを脱いで心を開いてくれるのは、太陽のように暖かい写真です。でも、その温かさの大切さは北風のような冷たさがないとわからない。だから私は、現実を直視する勇気と希望を伝える暖かさを両方捉えていきたいと思っています。

 


(取材日:2013年8月23日/文:桂 唯祐)

安田 菜津紀氏

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