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国際報道に貢献した報道者を表彰する「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞

毎日新聞社外信部の國枝すみれさんは、大学時代アメリカで社会学を学び、記者になるため帰国。東京、ロス、中南米…各国で何千もの人々のストーリーに触れてきました。2005年には国際報道に貢献した報道者を表彰する「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。記者生活に幸せを感じるという國枝さんにお話を伺いました。

Qまずは國枝さんが新聞記者になられたきっかけ・動機について教えてください。


父親が新聞社のカメラマンだったこともあり、子どもの頃からメディアは身近な存在でした。
だからといって昔から新聞記者になりたかったわけではなく、具体的に記者の道を考え始めたのは大学生の時でした。当時、社会や人間のことを知りたいと、アメリカに留学して社会学、特に「deviant behavior(逸脱行動)」について学んでいました。ドラッグにハマる人や売春婦など、社会から逸脱し、犯罪という形でラべリングされてしまった人たちに興味があったのです。

私自身、男女の役割に対する日本人の考え方に対して疑問を持っており、そこからある意味逸脱した人間なので(笑)、性別も年齢も立場も関係なく、実力があれば認めてもらえるアメリカは居心地が良かった。このままアメリカで研究者になろうかとも思いましたが、どうしても皮膚感覚で「現場」を味わうことに惹かれる自分がいました。

新聞記者なら、現地を目で見て、人に会って話して、まさに生の「現場」を体験することができます。新聞記者になろうと決めると、母国語ではない英語で記事を書くのは難しいと思い、日本に戻り新聞社を中心に就職活動を始めました。

同じ頃、双子の姉が鬱病を患ったことも記者を目指した理由の一つです。都合のいいことばかり発信する権力者もいれば、何かを抱えていても伝えられない人がいる。新聞記者になって、声なき人の声を形にしたいと思ったのです。

 

Q媒体の中で新聞を選ばれたのは何故ですか?


実はドキュメンタリーなど映像メディアにも興味を持っていました。人々はジャーナリズムとして価値ある事実が書かれた文章よりも、インパクトのある映像に惹かれます。ただ、テレビはカメラを担いでいかなくてはいけない分、制約が多いのです。ビデオカメラを持って現場に入った時点で、相手は意識してしまうし、自然な姿やコメントを引き出すのは難しい。

一方、ペンで語る新聞記者は身ひとつで現場に紛れ込み、相手に警戒させることなく真実を追求していける点が魅力でした。

 

Q毎日新聞社に入って最初に配属されたのは?


英字新聞の『毎日デイリーニューズ』です。外国で取材したいとは思っていたけれど、英語自体が好きなわけではないのです。せっかく日本で記者になったのに、毎日英語漬けで吐きそうでした(笑)。ですがデイリーニューズ時代に、その後の記者人生にとって貴重な体験ができたように思います。いいネタをとってくると、同僚の外国人達が興奮して、英文を直したり、記事作りに協力してくれるのです。

いい材料をとってきさえすれば、料理の部分は周りが手伝ってくれる。だからまずは同僚の彼らの心を動かすネタをとってこよう。休日もプライベートも関係なく、面白いファクト、魅力的なストーリーを見つけてくることに夢中になりました。
ただ、英語をネイティブに使えない私は、どのような文章がパーフェクトな英文記事なのかわからず、もどかしい思いもしていました。

なので本紙に移りたい希望はずっとあり、7年目に福岡で警察担当の記者になることができました。念願の警察(サツ)回りや夜討ち朝駆け。殺人、強盗、暴行など強行犯の担当になり、事件が発生したら現場に飛んでいって地取りをする。自分も警察と同じように推理しながら進めていくので、すっかり警察社会に浸かりました。警察と親よりも親しくなるような濃密な関係がすごく面白くて。

始めのうちこそ「女の子が夜中にこんなところにいてはいけないよ」なんて言われていましたが、そのうち「君は外見は女だけど、中身は男だね」と言われるようになり(笑)。徐々に警察官たちの信頼を勝ち取っていくのは楽しかったですね。

 

Qその後、ロスや東京、中南米と各地で活躍され、数々の記事を手がけていらっしゃいますが、その中でも「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞した記事について教えていただけませんか?


原爆について取材していた時、元米軍の兵士達の悲惨な体験を聞いてきました。
たとえばマーシャル諸島で行われた核実験では、意図的にきのこ雲の中を突っ切らされた兵士がいました。ネバダ州では投下直後に爆心地にヘリから着陸訓練させられた兵士もいました。

実験台にされた彼らは、病院に運ばれ、医者から被爆したか聞かれても答えられない。訓練で見たもの聞いたものを話してはいけない決まりだったからです。クリントン政権になってから、その制約はなくなりましたが、そのニュースも知らずに、今も軍法会議を恐れ、最後まで何も言わぬまま死んでいく人たちがいます。

原爆のことを取材したいと思ったきっかけは、カリフォルニア州で開かれた原爆写真展でした。写真展に来ていたヒスパニック系のアメリカ人達に感想を求めたら、「A-bombって何?」「広島、長崎ってどこ?」と逆に尋ねられたのです。米国で原爆投下を正当化する意見が主流であることは理解していましたが、アメリカ人が原爆そのものを知らないということにショックを受け、原爆開発に携わった関係者や遺族たちに電話をかけ始めたのです。

今は亡きジョージ・ウェラー記者の幻の記事に出会ったのは、彼のご子息に電話をした時でした。「検閲でボツにされた父の原稿が出てきた」というのです。幻の原稿があることも、長崎のメディアが必死で探していたけれど見つからなかったことも知っていたので、これはスクープだと直感し飛んで行きました。

ジョージ・ウェラー氏は太平洋戦争の取材でピュリツァー賞を受賞するほどの優秀な記者でした。広島、長崎への原爆投下の後、原爆の惨状を世界に知らせたくなかった米国は、西日本全域に外国人記者が立入ることを徹底的に禁じました。
そんな中ウェラー氏は「原爆投下から一カ月も経つのに、我々が何も知らないのはおかしい」と、自分の目で現場を見ようと決意します。

彼は唯一取材が許可されていた鹿児島の知覧特攻隊基地へ行き、米軍の目を盗んで抜け出すと、記者であることを隠し、列車を乗り継いで長崎入り。原爆が投下された長崎の町を歩き回り、そこで見た真実、原爆の恐ろしさを記事にしてGHQに提出しました。原稿が戻ってくることはありませんでした。

ウェラー氏自身、原稿はもうなくなったものだと思っていたそうですが、タイプライターで原稿を書いていた時に複写されていたものが、ご子息の手により、実に60年ぶりに発見されたのです。そのスクープ記事が、「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞しました。

ウェラー氏の原稿は風化により茶色くなっていて、触れるとポロポロと崩れました。けれど内容は、60年経っても検証可能なほど細かく正確で…原爆投下直後の紛れもない事実が記されていました。歴史の証人がよくぞ残っていてくれたと。
ご子息曰く、ウェラー氏は、「戦争で最初に犠牲になるのは真実」とよく口にしていたそうです。「最近の記者は政治家や官僚に抵抗する意欲を失っている」とも。耳が痛かったですね。

 

Q今後國枝さんが記者として目指すものは?


マスメディアの役割は、権力の監視だと考えています。けれど皆が新聞を読む時代は終わり、マスメディアは人々の中に存在しなくなってきました。
最近は、それぞれがSNSやネットニュースで、自分の思考に合った情報を得る人が増えてきました。情報の偏りに気付かぬまま、自分と同じ色の人たちと話すことで、自分の意見が100%正しい気になり、彼らの小さなユニバースである蛸壺にハマっていく。この状況は危機的だと思いながらも、昔のように皆が新聞を読む時代に戻れというわけではなく、正直どうしたらいいのかわかりません。

私は海辺の町で生まれ育ち、海の向こうに行ってみたい、見てみたいと思う気持ちが強い子どもでした。今でもまったく知らない場所へ行ったり、砂漠を歩いたり、スラムを散策することに、とてもワクワクします。「知りたい」性質を持っている私にとって、記者生活はとても幸せなものでした。現場はデスクにいるよりも、100倍楽しいです。スクープを抜かれると怒鳴られる、でも泣く暇もなく、眠れず、交通事故で死にかけたリ、殺されてもおかしくない状況に陥るようなこともあるので、100倍辛くもありますが(笑)。でも、楽しい。

印象深い記事の一つに、ポール・マッカートニー氏の取材があります。彼が言っていました。「誰でもいつか死ぬんだから、生きてる間に何か世界を変えようと思うことだ」。

たとえば私が記事を読んだ若い世代の人たちが、居心地のいい蛸壺から出て、色々な人の話を聞いたり、様々な場所に行ったり、自分とは違う価値観を認めることができるようになる。それで世の中が変わるかもしれない。ほんの少しでいいので、そんな風に貢献できるような記事を書き続けていきたいなと思います。

 

(取材年月:2014年1月30日)

國枝 すみれ氏

媒体名
毎日新聞

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