春らんまん!花と園芸の展覧会「尾州徳川の花相撲 帝もサムライも熱中!いとしの植物たち」
江戸時代、花の品評会は「花相撲」という言葉で親しまれ、相撲のように花の番付が出され、花や葉の美しさや珍しさを競って楽しむ文化が生まれました。 この展覧会では、名古屋園芸の創業者である小笠原左衛門尉亮軒(おがさわらざえもんのじょうりょうけん)氏のコレクション「雑花園文庫(そうかえんぶんこ)」から、江戸時代に描かれた植物の本などを、知って楽しい“花の対決”目線でご紹介します。また日本の植物や園芸文化に心惹かれ「ナンシーの日本人」とまで言われたアール・ヌーヴォーのガラス作家エミール・ガレの作品と、そのモチーフを描いた現代のボタニカルアート、アートフラワーとの饗宴をお楽しみいただけます。
①企画展の概要
奈良・平安時代の宮中で行われた天覧相撲「相撲節会(すまひのせちえ)」では、東方力士が勝利すると朝日を受けて咲く葵の花を、西方力士が勝つと夕日を受けて咲く夕顔(ひょうたん)の花を、それぞれの髪に差して退場。力士たちはそれらを褒美として受け取り、花を衣類や食料品に交換したと伝わり、花相撲の名の由来はこの時代にさかのぼります。 江戸時代になると「花相撲」は花の品評会をあらわす言葉となり、相撲の番付のように園芸品の番付が出され、大関から前頭までを東西に花を分け、葉や花弁の美しさ、珍奇さなどを競い合いました。そしてそれらの植物は、栽培方法などとともに「植物図譜」として描かれ、数多く出版されるなど、江戸時代の日本には、世界でも類を見ない独自で多様な園芸文化が花開きました。
本展では、名古屋園芸の創業者・小笠原左衛門尉亮軒氏が50年以上にわたり蒐集している「雑花園文庫」からとっておきの植物図譜などを、知って楽しい“花の対決”視点でご紹介します。また、日本の植物や園芸文化に心惹かれ「ナンシーの日本人」とまで言われたアール・ヌーヴォーのガラス作家エミール・ガレの作品、そのモチーフとなった植物を描いた現代のボタニカル・アートの作家たちとの饗宴をあわせてご覧いただきます。
ヤマザキマザック美術館が位置する「名古屋市東区葵」の“葵”の名は、徳川家の家紋である葵の花に由来します。朝日を受けて咲く花「葵」の地での多様な「花相撲」をお楽しみください。
②見どころ
1、江戸の名勝負
■将軍家と朝廷のツバキ対決
三代将軍家光は、朝廷との和を図るべく、椿好きの後水尾天皇に椿の図譜『椿華帖』を贈りました。ところが帝は、我こそは、家光よりもずっと椿を知っているぞ!といわんばかりに、そこに描かれていない他品種の椿を加えて『椿花図譜』(現在宮内庁所蔵)を残したのではないか?とは、雑花園文庫庫主 小笠原左衛門尉亮軒氏の説。その推論を裏付ける椿の資料を公開し、その謎に迫ります。
■東大寺大仏殿で披露 高さ12メートルの巨大いけばな!
1692年(元禄5)、天皇が大仏に筆で目を入れる「東大寺大仏開眼供養」の際、外に置かれていた巨大大仏の前に、一対の巨大な立花が供花されました。手がけたのは池坊社中の高弟 猪飼三枝と藤掛似水。花瓶の高さだけでも7尺5寸(2メートル27センチ)、活けた花は水際から3丈2尺(9メートル70センチ)というから、高さ12メートルにも及ぶ巨大ないけ花が大仏に供花されたのです。
■桜と牡丹 江戸の花番付
「草木花角力(そうりきはなずもう)」は、江戸時代に人気が高かった花を「草の部」「木の部」に分け、その人気を競いあった番付表です。当時の「東方」大関は牡丹、「西方」の大関は桜でした。それらを記録した植物図譜も数多く出版されました。
2、朝鮮人参との取組~尾州徳川の薬草畑~
朝鮮人参の畑がひろがる名古屋市東区葵の地
ヤマザキマザック美術館が位置する名古屋市東区葵の一帯は、江戸時代は、朝鮮人参の畑が広がる御薬園でした。朝鮮や中国から高値で仕入れなければならなかった朝鮮人参の栽培をなんとか日本で成功させようとする取り組みは豊臣秀吉の時代にはじまります。ところが本家朝鮮でもうまくいかなかった栽培は困難を極めました。享保20年(1735)9月、尾張藩七代藩主徳川宗春が将軍吉宗から朝鮮人参7本などを拝領し、用土・施肥・病虫害対策・日覆などを様々な工夫を施し栽培を成功させたのが、この地で人参御用をしていた三村森軒(1691-1762)でした。延享2年(1745)には人参887本、実(たね)109粒を得るまでに進歩させました。
朝鮮人参の栽培成功は名古屋の医学を大いに発展させることにつながりました。宗春は、自身が子供時代を過ごし、また人生最後の10年を過ごしたこの地『御下屋敷御薬園』に薬園奉行を配置し、人参を大切に育て、人々に広めました。広大な敷地を誇る薬園の存在は、尾州本草学(植物を利用した薬草学)の研究を推進し、名古屋を医学研究の地へとつくりあげていきました。
3、東西朝顔対決 ガレを魅了した日本の変化朝顔
江戸時代の中頃 享保8年(1723)、三村森軒は、日本ではじめて朝顔の専門書『朝顔明鑑鈔』を著しました。尾州で変化朝顔の栽培が盛んになったことや、花や葉の色や形の変化はもちろん、栽培の工夫や鉢づくりの流行などについて書かれたこの本は、ヤマザキマザック美術館の斜め向かいに位置する名古屋園芸創業者 雑花園文庫ご隠居 小笠原左衛門尉亮軒によって名古屋の古本屋で発見・購入されました。これまで変り朝顔の流行は、江戸や大坂で巻き起こった文化・文政期(1804-1830)のブームがその先駆けとされていました。しかし本著の発見により、さかのぼること100年近くも前に、既に尾州で、変り朝顔の栽培が流行していた事実が知られることとなりました。
江戸時代の武士たちは、珍しい形の花や葉の品種を次々に生みだしました。仕事が少なくなった武士たちの副業として朝顔栽培が広がったのです。この流行で、花びらがちぢれたり、細く割れたり、キキョウの花のようなものなど、朝顔とは思えないような奇妙なかたちをした新しい品種が次々に生み出されました。江戸時代につくられた変り朝顔は1000種以上に及ぶといいます。
奇形朝顔の変異は劣性の遺伝子の掛けあわせで引き起こされます。メンデルの法則が報告された1865年から100年以上前に、江戸の武士たちは、この遺伝の法則はもちろん、受粉のしくみでさえも知らないままに、工夫を重ね、知恵をしぼり、高度な品種改良を繰り返していたのです。
桔梗の花によく似た星形の花びらを持つ桔梗咲の朝顔もまた、江戸時代に日本で発達した変り朝顔のひとつです。フランス北部ナンシーに生まれ育ったガラス作家エミール・ガレは、植物学者としての顔を持ち、特に蘭の変異の研究に熱心に取り組んでいました。ナンシー園芸学校でまなんだ日本人 高島北海は、変わり朝顔の本をその地に残しました。その本を、はたしてガレは目にしたのでしょうか? ガレが日本の変り朝顔に強い興味をしめしていたことが伝わる作品《朝顔文ランプ》を展示します。
4、世紀末の饗宴 アール・ヌーヴォーと日本文化
江戸末期、ヨーロッパの市場が日本文化に大きな興味を示したその波に乗り、日本の美術工芸品は、国威発揚の輸出産業として、多くの秀作が海を渡り、同時期のフランスの新しい芸術-アール・ヌーヴォー-に多大な影響を与えました。それら日本の美術工芸品のデザイン元となった図譜-たとえば葛飾北斎が門下生たちに残した3900点余りの図柄を掲載した絵の百科事典『北斎漫画』は、欧米ではホクサイスケッチと呼ばれ、画家やデザイナーたちに多大な影響を与えました。
展示では『北斎漫画』他、エミール・ガレのもとにあったとされる日本の書物や、ガレと親交があった、当時ナンシーに住んでいた高島北海が残した「高島蔵書」のリストから、雑花園文庫コレクションが所蔵する書物を展示し、ガレと日本文化、ひいてはガレとアール・ヌーヴォーの影響関係を探ります。
5、平成の花相撲 アール・ヌーヴォーとボタニカル・アートの饗宴
アール・ヌーヴォーの作家たちのモチーフになった草花を、現代のボタニカル・アートの作家たちが描きました。日本文化の影響を受けて、19世紀末にフランスで花開いたアール・ヌーヴォーの家具やガラスと、ボタニカル・アート、アートフラワーとの競演をお楽しみください。
展覧会URL:http://urx.mobi/JcFh
会期:2018年4月20日(金)~8月26日(日)
会場:ヤマザキマザック美術館
461-0004 愛知県名古屋市東区葵1-19-30
電話 052-937-373 / ファックス 052-937-3789
開館時間:平日:午前10時~午後5時30分(入館は閉館の30分前まで)
土日祝:午前10時~午後5時(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜日(※ただし4月30日、7月16日、8月13日は開館)、7月17日(火)
入館料:一般1000円(10名様以上800円)、小・中・高生500円、小学生未満無料
〔音声ガイド無料サービス〕
主催:ヤマザキマザック美術館、中日新聞
協力:名古屋園芸株式会社、NHK文化センター名古屋教室、株式会社深雪スタジオ、株式会社カセットミュージアム、日本植物画倶楽部、ボタニカルアート四季の会
後援:愛知県教育委員会、岐阜県教育委員会、三重県教育委員会、名古屋市教育委員会、名古屋市文化振興事業団
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企業情報
| 企業名 | ヤマザキマザック美術館 |
|---|---|
| 代表者名 | 後藤 昌功 |
| 業種 | その他サービス |









