日本語JAZZ深川隆成デビュー3周年

JAZZ歌詞を日本語に意訳して英語と日本語の両方で歌う深川隆成。10年間JAZZ歌詞の和訳に没頭し、2016年の4月6日の誕生日にデビュー。自身のライブや自作曲のCDの収益をアフリカの中でも人口対比で最も小学校の割合が少ないとされるベナン共和国の小学校建設基金に寄付活動中。4月はその深川隆成のバースデーライブが各地で行われる。

2006年から10年間ひたすらJAZZの日本語訳を続け、2016年4月6日、自身の53歳の誕生日にデビューした深川隆成。

4月は以下の予定で深川隆成のデビュー3周年兼バースデーライブが行われる。

 

4/3(水)茨城空港前空の駅そ・ら・ら(0299-56-5677

         vo  深川隆成,pf 佐藤まさみ

          11::00~,13:30~,15:00~

4/6(土) 20:00~東京倶楽部目黒店(03-6417-0166

        深川隆成バースデーライブ

  vo深川隆成,pf星野由美子,b篠宏昌,ds山下一樹,sax大川修広,

  dancer Rusie, Yoko

4/7(日)19:30~水戸ペーパームーン(0292-32-4100

      vo深川隆成,pf星野由美子, b清水尭斗,ds山下一樹,sax大川修広

4月21日(日)18:30〜居酒屋にゃんピース(常磐線佐貫駅前)

  i茨城県龍ヶ崎市佐貫町486-5

      vo   深川 隆成,pf 加納聡美,b本間定,ds 小岩 賢治 

 

深川隆成(55歳)には大きな転機が二つある。

1989年1月4日、25歳の時に交通事故で車の下敷きになり30m引き摺られて身体中大怪我を負った。三日間危篤状態の後に蘇生。三度に渡る手術などで2ヶ月の入院した経験が人生最初の転機となった。

三日間に渡った危篤の時に、人の役に立つまでは死んではいけないと告げられた夢を見た。夢から覚めたベッドの上。頭がアスファルトと擦れ削れたり割れたり、首の骨が圧迫骨折、左腕の骨折、右胸と右足太腿がラジエーターの下で黒焦げ状態。そして全身打撲。

身体中の激痛に耐えながら闘病している時に、この痛みに耐えられるなら、なんでも出来ると思って最初に選んだのがマラソンより長い距離を走るウルトラマラソン。痛みとの共生なら誰にも負けない、人のやらないやりたがらないことで勝てばどんな境遇になっても頑張って目標を持てば叶うという事を身を以て示す決意で、ベッドから降りる許可が下りてから早速リハビリを開始。

半年後にサロマ湖100キロマラソンに初参加、初完走。走り出して3年目の1991年に24時間走の大会で優勝。1992年には日本最初の250km走の大会山口100萩往還マラニックで36時間56分で1番目にゴール。2001年にギリシアスパルタスロン完走。自己ベストは24時間で205.5km。

その後の二つ目の転機は、2006年2月の父の死。リンパ腺を通って全身に転移するスキルス性胃ガンで発症後2ヶ月での他界であった。その父は茨城県水戸市で小さな会社を経営していたが、家を担保にした借金だけが残った。残されたのは借金と家と体の弱い母。日本中どこまでもウルトラマラソンの応援に来てくれた父に何もしてやれなかった自分をみつめ、負債を引き継いで家を守るという母の願いを叶えるのが父への親孝行と決意。その後、勤務先の茨城県の工場に転勤。工場に転勤して配属されたのが会社の貿易部門。毎日夜遅くまで英語との格闘となり、走る時間は無くなり、マラソンとも縁遠くなった。

しかし、英語を使った仕事をしているうちに、JAZZの日本語訳に目覚めた事で新たな道に目覚めた。英語は音符に一つの単語が乗り日本語は一音しか乗らないが、短歌や俳句の様に同じ表現を違う言葉で短くすれば心に同じ景色が宿る事に気がついた。その時に、黒人音楽のJAZZを日本語歌詞にする事で公演やCD販売などが出来たら、その利益を黒人の故郷で人類誕生の地でもある未だに貧困に喘ぐアフリカに学校建設の援助が出来るのではないかと閃いた。まるで交通事故で死にかけて痛みに耐えていたベッドでウルトラマラソンに活路を見出した時の様に。

16年ローンで父の負債を返済している間は他にする事が無い。それなら、地中の蝉の幼虫と思って、ひたすらJAZZの日本語訳をしよう。

それからはひたすらJAZZ歌詞の和訳に没頭。

最初に訳したのは、What a wonderful world。

訳詞をしている時に日本語でJAZZを歌うには大きな山が二つあると考えてもいた。

一つは、日本を代表するJAZZライブハウスで日本語歌唱禁止で名高かった六本木サテンドールで歌う事。

もう一つは、世界に認められる為にNYのカーネギーホールで歌える様になる事。

日本での一番難関を乗り越え、世界の難関を乗り越えれば、自分が描く歌で世の中に貢献出来る道も拓けるのではないか?交通事故で死にかけた時に困難に挑戦しようとした時にウルトラマラソンに挑戦した時を思い出し、走りを歌に変えて行き着くとこまで行こうと決意。

そして、訳詞がだいぶ揃った10年目になる2015年に水戸の実家を売却して借金を清算して歌う活動を本格化。

2016年4月6日に池袋ホットペッパーでライブデビュー。日本語歌唱のジャズと歌と歌を繋ぎ合わせて物語にする取り組みなどが受けてライブの数も増え、遂には歌い出して一年目の2016年11月19日に六本木サテンドールでワンマンライブ開催。

第一歩の山をクリアした後は、様々な場所でライブ活動を行ってきた。

やがて訳詞だけではなく、Cantaloupe Island、Blue  Bossaといった演奏だけの曲に歌詞をつけて日本語と英語で歌う事もレパートリーの一つとなる。

その後、2017年から拓殖大学の先輩成田浩一氏(65歳)のNPO茨城教育ネットワークで小学校の割合が人口対比3割弱とアフリカでも最も少ないと言われるベナン共和国の学校建設基金を開始すると知り、自身のライブの収益を寄付する事とした。

更に、2018年3月には自身のオリジナル作詞作曲の歌でミニアルバム「桜の季節」を発表。

このCDの売上収益の振込口座をベナン共和国学校支援基金として歌の収益をアフリカの子供達の教育への後押しに繋げるという足掛かりとなった。ベナン共和国が奴隷海岸に位置し、アメリカなどに奴隷を供給した港があった国と知ったのはCDを出すに当たって資料をまとめた際に初めて知り、ずっと一途になにかをしていればきっと叶う巡り合わせがあると病院のベッドで蘇生した時の思いがよぎった。

その後、2019年にはオリジナル曲「桜の季節」のカラオケ化に稀勢の里が引退して寂しくなった地元茨城県牛久市の牛久シャトーの桜を映像にする地域貢献を目指したり、いじめ防止に温かい家庭の愛情を歌った「冬の家路」のイメージビデオなども手がけ、歌の持つ力を最大限に引き出そうと取り組み中。

現在、深川は、来年3月にNYのカーネギーホールにある大中小ホールのうち小ホールにあたるWeill Rectial Hallでベナン共和国学校建設チャリティーも兼ねたコンサートを企画中である。より広く活動の場を広げる事で、歌で人の役に立つ事を模索している。25歳の時に死にかけた時に、夢の中で人の役に立つまでは死んではいけないと告げられた約束を果たす為に。

深川隆成のプロフィール詳細

https://www4.hp-ez.com/hp/ryuseif/page7

深川隆成ホームページ

https://www4.hp-ez.com/hp/ryuseif

深川隆成NYカーネギーホール公演クラウドファンディングページ

https://motion-gallery.net/projects/beninibarakiouen

 

 

 

 

 

 



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企業名 RYUSEI FUKAGAWA
代表者名 深川 隆成
業種 エンタテインメント・音楽関連

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